溶かし込んだ砂糖の量が多かったようだ。そっと縁に口付ければ、注いだばかりのコーヒーの甘ったるさに眩暈を覚える。くらり、回らない思考回路の中でキドは少しだけ溜息をつく。もうひとつばかりスプーンでカップをかき混ぜれば、飽和し切れなかった砂糖はまた底へと沈むばかりだった。
時刻は既に真夜中過ぎ、外はきっと鮮烈な夜の色を反射させているだろう。安物のネオンライトが点滅を繰り返して、大人達は一夜限りの遊戯を楽しむ、そんな箱庭のような中でしか存在し得ない夜の色。鮮明に思い浮かぶその色がまたキドの思考をおぼろげにさせてゆく。ああ、でも確か彼はこの色を好んでいた。
彼は鮮烈な色を好む。ある時―あれは衣替えのために二人、服を選びに都会へと出向いた時だーいつもどおりのどこか造り物めいた笑顔のまま、そんな夜の色のパーカーを手に取っていた。少しだけ満足そうな表情を浮かべた彼はそれからゆるりとキドの方へと視線を向けて、これはどうかな、と問うた。そうして久々に覗いたのは彼のキャラメルのような柔らかい瞳。少しだけ暗い色に滲む瞳を覗かせる彼を見たとき、キドは不思議な感覚に囚われた。どうしてか彼が見知らぬ青年に見えたのだ。自分よりもひとつもふたつも年の上な青年に。彼の抱えるどこかへ消えてしまいそうな危うさは鳴りを潜め、代わりに臆病な本心が隙間から見え隠れする。キドはそんな青年を呆、と見つめていたのだった。
夜の色は、大人の色だ。
大人というものがキドは嫌いだった。
夜の色を燦々と映し出す大人はいつだって、キドをいたわる様な振りをしつつ、的確に心を傷つけた。家にも居場所はなく、外に出れば大人たちがキドを物珍しそうな好奇の視線を投げつける。にこやかに笑いながら、手の内で踊らされているような感覚をもたらす、卑劣な輩。キドが大切に仕舞っておいたきらきらとした宝物を夜の色へ紛れ込ませてしまう輩。それがキドの「大人」というものへ対しての定義だった。
緩やかに回想へと落ちて行くキドを引っ張り上げたのは微かなノック音だった。
ここに今日訪れるのは、きっと彼だけだ。立て続けに三回ほどノックされるそれに少しばかりの苛立ちを覚える。もう少しばかり気を使ってもいいのではないだろうか。こんな真夜中に幾度も個人の部屋の戸を叩くなど。少しばかり未だ回らない思考を回転させて、彼に割り与えた任務を思い出す。ああ、そうか。すこしの沈黙の後に、キドは小声で問うた。
「カノか?」
早くも鳴きはじめた夏虫の声に紛れてしまいそうなその声は確かに相手へと届いたようだった。「そうだよ」と囁き返される声に少しばかりの安堵を覚える。白磁のカップを小さなテーブルに置いて、それからキドはロックを解除した。
扉を開いた先に佇むカノは幾分ばかりか疲れたような表情を浮かべていた。暗い色を湛えたその猫の目に、はたりとキドは息を呑む。随分とほつれてしまったパーカーと擦りむいたような傷痕。きっとそのままこちらへと向かってきたのだろう。キドは幾分か痛々しいような、泣きたいようなそんな顔をしてから自室へとカノを招いた。
キドの部屋は最低限のものだけがそろえてある。学習机のスタンドをそのまま持ってきたかのような真っ白な蛍光灯に、引き出しの中には無地のペンケース。先ほどまで口を付けていただろうコーヒーカップも白磁のもの。乱雑に置かれた日記簿すら二色の色でしか構成されていない。アジトの内装の細部までに気を配るキドの部屋の対照的な様子は、誰しもが驚く。それでもカノは気付いているのだ。彼女が密かに色彩豊かな雑貨を隠し持っていることを。
「いやー、でも相変わらずだよね。この部屋も」
招かれたカノは部屋の様子を見渡して、それから散らばった書類をまとめてから床の上へと座り込む。床の冷たさが火照った身体には心地よい。
対して何やら探しものをしている様子のキドは、そうだなあなんて相槌を打つ。どうやら相当奥の方へしまいこんでしまったものらしい。ひとつひとつ包装されたダンボールの中を注意深く探っていた。
「ねえねえキド、手伝おうか?」
「馬鹿、その怪我で動かれたらこっちが困るんだよ。ベットの上でその辺にある雑誌でも読んでろ」
ささやかに手伝いを申し出てみるとキドはあっさりとそれを断った。まあ、確かに動けしない身体だ。散々酷使してきた身体はもう既に悲鳴を上げている。「そうだよね、ごめん」なんてへらり笑ってから、有り難くベッドの上に上がらせてもらう。冷たい床も心地よいがなにせよ疲れてしまう。柔らかなベッドの上の方が無難だろう。彼女のささやかな気遣いにカノは深く深く息をついた。
まだ探し物を続けているキドの方へと見やれば、箪笥の奥底に仕舞われたダンボールをまたひとつ、取り出しているところだった。ぺりぺりというガムテープの音と共に幾年ぶりかに開かれた箱の中、小さなティアラや編まれた手製のお人形などが顔を覗かせていた。未だに輝きの失せないそれを見つめて、カノは呆と考えた。きっと彼女が幼い子供だった頃に大切にしていたものだ。でもどうして手元へ置いておくのだろう。ふとカノは首を傾げた。
「お、あった」
ダンボールの箱を探っていたキドは小さなケースを持ち出した。どうやら包帯セットのようだ。ままごと用だろうにかなり高価なものだ。中身は全て本物で、実際に使うことができるらしい。消毒液の濃い焦げ茶色がケースの中で微かな音を立てて揺れていた。
「え、それって…」
「あ、うん。昔の家で、姉がくれたんだ」
懐かしそうで、それ故に嬉しそうな表情のキドはふいと視線を傷跡に向けた。かなり深く擦りむいてしまっていたようで、傷はひりひりと空気にしみてゆく。カノは傷ついた箇所からふらり、視線を逸らした。
「カノ。大丈夫だったか?結構危ない任務だっただろう。とりあえず帰ってきたところで一安心だったんだが。あ、後パーカー俺の元へ置いてけ。ほつれた部分直してやるから」
そう訊ねつつも手を止めないキドは早速消毒液で傷口を洗い流した。
「あー、うん。分かった。まあ、任務のほうはね。怖いおじさんに追いかけられたくらいだから、大丈夫だよ」
そう口を開けば、キドはそうか、と呟いただけで何も言わずにガーゼをあてがって、それから少しばかり色褪せてしまっているテーピングを巻いた。
「大人は、嫌いだな」
カノはにこやかに笑う。
もう既にこんな風にしか笑えやしない。笑い方なんて当の昔に忘れてしまった。手当てした傷口を呆と眺めていた彼女の頭にカノはゆるりと手を載せてみる。
二人だけの空間ということが大きかったのか、キドは軽く睨むだけで後はされるがままだ。ああ、久しぶりだ。これ程までに彼女が素直なときは珍しい。少しばかり口元を緩めて、それからカノは一定のリズムを刻む鼓動と同じタイミングで息をついた。
「手当てありがとう。じゃあさ、キド。ほらベッドの上に腰掛けなよ。今日も始めよう」
緩やかにカノの手によってほどかれてゆく翡翠に良く似た色の髪。ひとまとめに掬い上げられるそれの中の一房が綺麗な白い指先からきらきらと零れ落ちてゆく。白いシーツの上によく映える緑髪が惜しみもなく垂らされる。つっと目を細めるカノはやはり何処かの見知らぬ青年だった。
昔、あの暖かな赤レンガの家に行く前の家。家族の人々が白い目を向けていたあの頃、ただひとり姉だけがキドを可愛がった。「姉さま」と呼ばなくてもいいのよ、なんて頭を撫でながら笑う姉の姿は今でも鮮明に覚えている。そんな優しかった姉の行ってくれたたったひとつの習慣。それか髪を梳くという行為。心地よく髪を梳かれる心地よさに、キドは安堵を覚える。
窓の外に広がる夜の色。カーテン越しから僅かに覗く鮮烈なその色にキドは眉を潜める。するとそれに気付いたようにカノはそんなキドの視界を遮った。大丈夫、大丈夫。あやされることに対して少しの苛立ちと懐かしさを覚えて、キドは瞼を閉じた。
小ぶりの櫛で丁寧に梳かされてゆく感触はいつだってくすぐったい。キドはうつらうつらとまどろむ。冷たさの残る指がうなじに触れる感触にキドは肩をすくめた。くつくつと笑いつつ遊び心にかられたであろうカノはふ、と耳元に息を吹き込んだ。
「…っ何するんだ」
堪らず瞼を開けば、カノはくつくつと笑ってみせていた。未だに暗い夜の色を湛える彼の瞳から視線を逸らして、キドは誤魔化すかのように息をつく。整った顔立ちの彼は本当に猫のようだ、キドは思う。気まぐれで、どこかへとふらり、と消えてしまいそう。引き留めたいという心持ちを抑えながら、キドは足元のシーツを握り締めた。
「いや、キドが可愛いからさー。やっぱり女の子なんだなーって」
笑みを深めながら、それでも手を止めずに髪を梳かしてゆくカノのそんな言葉にキドはひと時だけ息を止めた。握り締めていたシーツをゆるりと手放して、それからキドは顔を伏せる。さらさらと整えられていた緑髪はたまらずカノの手元から零れ落ちる。はたと髪を梳かすことを止めたカノは一言謝罪の言葉を口にしながら、いつものように笑ったのだった。
「ああ、ごめん」
夜は静かにキドの嫌いな色を乱反射させていた。
口にした本音に、息を止めたキドを見つめていた。開かれかけた桜色の唇からは声にならない声が掠れた音を立てる。そっと見開かれた黒の瞳にカノはふと思い出す。そう、彼女の持つこの綺麗な黒の色はどこかで見たことがある。緩やかに蜘蛛の糸に良く似た記憶を手繰り、カノはまたひとつ笑う。ああ、そうだ。幼い頃の姉ちゃんのきらきらとした瞳によく似ているのだ。子供だけが持つ事の許される、曇りのない純粋な瞳。
それでも彼女の瞳の色は姉ちゃんのそれとは決定的に異なるものだった。彼女の綺麗な黒色は、きっとその色を演じているだけ。
顔を伏せたままの彼女にひとつ、謝罪の言葉を述べて、それから櫛へと視線を落とした。カノは少しだけ寂しそうに微笑む。玩具のそれは、ライトを安っぽく反射させていた。ところどころ刃の欠けている柔いプラスチック製のそれを見つめて、はたりとカノはこの行為の意味に気付いたのだった。
彼女が子供の頃のものや行為に執着するのは、まだ大人になりたくないから。
ばかだなあ、とカノはひとり嘆息を零す。子供はいつしか大人になってゆくものだろうに。どれだけ子供でいたかったとしても、どう抗えども大人になってゆくことをやめることはできないのに。ああ、でもきっと彼女はそのことに気付いている。気付いているくせに抗うことを止めないのだ。
「ねえ、キド」顔を上げないキドへひとつ、カノは咀嚼するかのように彼女の名前を呼んだ。零れ落ちたままの緑髪。ぎゅっと自分の身体を守るかのように両腕を自らの身体に回した彼女は既に一人の大人だった。
「キド。キドはさ、この行為のことをどう思っているの?」
「…」
何も答えずにただ俯くキドにさらに質問を重ねる。
「子供の頃の物のつまったダンボールを身近なところに置いておいて、毎夜毎夜子供の頃に行っていた行為の繰り返し。ねえ、もしかしてキドは、」
おとなになりたくないの?
は、と息を呑む音がした。天井を見据えていた視線を落とせば綺麗な黒の瞳がカノを見据えていた。
キドは酷く動揺しているようだった。何故、どうしてという言葉が震える唇から零れ落ちる。その様子を見てカノはただただ見つめていた。
「そりゃあ分かるよ。幼馴染なんだから」
へらりと笑ってみせれば、キドはゆるりと息をついて、それから瞼を閉じる。その様子が妙に妖艶でカノはふとそちらに目を奪われる。ひとつ息を吸って、それから彼は視線を上げた。
「ああ、やっぱりお前にはどれだけ隠してみせようとも敵わないなあ」
ひと時だけ、視線が交差する。
「でもな、カノ。お前はどうなんだ?」
くすくすと笑いながら、余裕を持ったように不敵に笑うキドを見つめて、それからカノは夜の色を湛えた瞳のまま笑う。綺麗と言うに相応しいであろう笑顔はあまりに綺麗だと不気味と言えるのだ、ということにキドははたりと気付いた。
「キド、」
耳元に囁かれた言葉に視線を上げたキドの視界は遮られる。視界を失ったキドが押さえつけられた力強さに怯えを抱くのにそう時間は掛からない。カノは耳に掛けられた緑髪をくるくると弄んで、大丈夫ともう一つあやすように告げた。シーツを強く握り締めたキドの左手は強張った大きな手の平によってふわりと掬い上げる。指先から伝わる温い温度がゆるりと絡めあった。
「もう、僕らは子供ではいられないんだよ。子供の頃のきらきらとした綺麗な思い出は、こんな夜の中では意味はないんだ」
突きつけた事実はきっと彼女には相当痛いものだろう。それでもそれを今、突きつけねばきっと彼女はまた子供の頃に回帰しようとするだろう。変わりやしない事実から目を背けて、彼女は明日も幼い子供の真似を演じ続ける。
いつまでも、いつまでも首を振り続ける彼女はさながら玩具を欲しがり駄々をこねる子供のようだった。その様子はいつかの自分に良く似ている、とカノは綺麗な黒色に映る深い夜色を見つめていた。
夜の帳は既に下り、ただただ鮮烈な色が眠らない街を飾る。
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